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庭先から市場まで

「広報はやかわ」をめくっていると、ある記事に目を引かれた。「部落から……市場まで」と題して、野良着姿の女性が三人、トラックにタケノコを積み込む姿をとらえた写真が大きく載っていた。昭和52年6月号の表紙を飾ったその記事には、「…農家が持ちよった山菜、野菜を…市場へ直送するために6月1日から町の農林産物輸送車がスタートしました。みなさんも現金収入を少しでも多くするために、ご利用下さい。」と書かれていた。
「町で直販みたいなことに取り組んでいたのか」
「早川のもうけばなし」をテーマに材料を探していた私は、情報を集めるうち、早川町の人々の基本的なありかたは、何かをあてて「儲ける」というよりも、しっかり働いて「稼ぐ」方が主なのだ、それが21世紀の今も変わらぬ姿勢なのだ、と思い至り、そうした地道なあり方にこそ、目を向けるべきだ、と考えていた。いやむしろ、早川町で暮らす人々には、地道なあり方しかなかったのかも知れない。でも、いい時代はあっただろうし、いい思い出もあったはずだ。それを汲み取りたい。そんな思いのなかでこの記事に目が止まった。ずい分先進的なことに取り組んでいたのだな、との感想とともに。
ほぼ1年後の昭和53年3月号の広報に、「走り回った出荷輸送車」の題で、半年間の成果が紹介されていた。総売上げ450万円、うち笹走が第1位の70万円を稼いでいた。次点の塩之上、千須和が30万円、と笹走が大きく引き離した好成績をあげている。
「笹走で何があったんだろう」
そんな疑問とともに、この出荷輸送車の意味を知りたくなった。

 

あの頃を振り返る 広報はやかわ164号より(昭和53年7月15日発行)

草塩に天然ガスが噴出!

昭和50年代、出荷輸送車とならんで活性化の起爆剤として期待されたのが、草塩集落内での温泉ボーリングとその最中に噴き出した天然ガス。専門機関からも、極めて良質なガスであるとのお墨付きを頂き、町中が希望に胸をふくらませたそうです。
昭和54年5月に草塩温泉がオープン。天然ガスを利用して、20度の源泉を加熱する仕組みが取り入れられ、町内外から大勢の温泉客が訪れるようになりました。近隣では、民家を改装し民宿を始める方も現れ、草塩集落は温泉民宿村として賑わうようになったのでした。