18/新倉銀座物語



新倉銀座物語

 早川町新倉。世帯数が百に満たない集落であるが、昭和20年代末から昭和40年代にかけて、旅館、映画館、パチンコ屋、飲み屋、その他魚屋や雑貨屋等々が立ち並ぶ「お町」で、その賑わいは新倉銀座と称される程であった。
 当時の日本は、戦後の復興期を乗り越え、高度経済成長の真っただ中。そのような時代の要請を受け、早川町では林業や発電所の建設が盛んであった。早川の木は切り出され、都市部の住宅に。早川の水が生み出す電気は京浜方面に送電され、工場や家庭のエネルギー源に。
 産業は人を呼ぶ。木を切る人、運び出す人、発電所の工事をする人、そのための道路を造る人…。人は人を呼ぶ。仕事に携わる人の家族、彼ら相手に商売をする人…。地元住民に加え、東京電力の社宅に暮らした人々や飯場にいた工事関係者などの、日々の生活から娯楽に至る需要をまかなっていたのが新倉銀座だった。
 今回のやまだらけでは、新倉の最盛期とも言える昭和34~35年頃にスポットを当て、当時の街並みを再現。山の中に現れて消えた「銀座」を巡るエピソードと共にお届けする。
 

山人インタビュー⑤

今回の取材でお世話になった、田吾作さんと長五郎さんにお話を伺いました。

■今日は新倉の分水亭田作さんと、竹薮亭長五郎さんにお話を伺います。このお名前は芸名なんですよね。何の芸名なんですか。
田吾作、以下「田」:昭和20年代後半から30年代頭くらいにかけて、青年団で芝居をやっていてね。その後、昭和43年に、防
火用水兼プールに更衣室を作ろうっていうことになって、その寄付を集めるのと親睦を兼ねてもう一度芝居をすることになったんだよ。それで田吾作座っていうのを結成して、一人ずつ芸名を付けたんだよ。
長五郎、以下「長」:「屋号を使ったり本名からー文字取ったりね。私は顔が長いから長五郎(笑)。
田:昔は娯楽も少なかったから。青年団の頃は毎晩練習があって、家にいるより楽しいからみんなくるんだよ。女子もいたしね。
長:かつらなんかも自分たちで作って。
田:照明やなんかの舞台装置は、それこそ東電へ行っているような奴がいるから、ブ口だわな。
長:芝居をやれば公民館が一杯になって、
田:ご祝儀も、(ご祝儀をくれた人の名前が)壁にずらっと張り出されるくらいでな。
長:他の集落の青年団の連中が来てヤジとばしたり、工事関係者が来てけんかになったり …。
田:田吾作座になってからは、まあ、大人になったし、けんかなんてこともなかったけどな。
長:音楽やる人も多くてね。特にギターは割りに手に入りやすかったし。
田:東電祭りに出演で行ったりしたよ。人が足りないからっていうんで、よし、お前ドラムを叩けっていうんでな。ギター
弾く衆(し=ギタ弾く人)と一緒に、自称「うまい」人がマイク持って歌って。
長:東電の人がギターに惜り出されたこともあったね。お互い行ったりきたりで。
田:舞台も立派だったぞ。紅白の垂れ幕もしてあって。灯りなんてそれこそ専門だ。
長:東置と新倉は関わりも深かったからね。勤めている人も多かったし。
田:東電には購買部もあって、社宅の連中はそこで買い物するんだよ。共同で仕入れた酒なんか売っててね。
長:東電の奥さん連中は着物に割烹着。こっちは「むらやの衆」って呼ばれて、紐だとか、つぎが当たったようなもんペでねえ。
田:道のあっちとこっちじゃ違っててなぁ。正月も、向こうは新暦、こっちは旧正月(笑)。

■当時の賑わいを、地元の方はどう見ていたんですか。
田:今でこそ懐かしいような話をしているけど、その頃は、喧嘩もあったり、そんなに“ありがてえ”っていう感じじゃなかっ
たなあ。
長:商売をしている人は、これがいつまでも…と思っていたけど、そうでない人はねえ。早く静かにならんかなぁなんて思ったよ。
田:まあ、こんなに(静かに)なるとは思わなかったから(笑)。あのころは夜中までうるさくてかなわない。酔っぱらいが、
泊まっていた宿と勘違いして家に上がり込んできたりして。
長:パチンコ屋や居酒屋に入り浸るような人も出てね。家にお母ちゃんがいるのにお姉ちゃんのいる店でお酒飲んでいる方がいいなんてね。
田:(居酒屋の)はるみなんてまぁ、今で言やぁ風俗営業みたいなもんだわ。
長:実際のところ、地元の人も含めて、良くない影響もあったね。
田:地元の人間もずいぶん東電に勤めたけど、結局、発電所が自動化された時に出ていってしまったしね。
長:でもまぁ、悲観的になるだけじゃなくて、ここに住むものだけでも楽しんだりしながら暮らしたいと考えて、今度の
お盆にも企画を考えたりしているんだよ。
田:もともと田吾作座もそういう趣旨だしな。 新倉銀座の昔が戻るわけじゃないし、人間が少ないなら少ないなりにやれ
ることやろうって思っているさ。