34/雨畑硯にかける想い

雨畑硯にかける想い

雨畑硯といえば、昔から良質な和硯として全国的に有名である。その歴史は700年前まで遡ると言われ、江戸時代より将軍、天皇にも幾度となく献上されてきた。また、昔から文人墨客からの愛用も多く、「雨畑硯」の質の確かさと知名度の高さは今や確実なものとなっている。
では、雨畑硯の価値の本質はどこにあるのだろうか。それは雨畑地区の奥に位置する、稲又集落の坑道で採れた原石の質にある。この原石の価値は、硯となり、墨を磨るときにわかるその滑らかさや、できた墨汁の伸びや持ちとして昔から知られてきた。そして近年になり、その原石の質の素晴らしさは、科学的な実証をもっても明らかにされている。
この雨畑硯の価値を守るため、雨畑地区では、大正時代より地元で採掘された硯石を「雨畑真石」と呼び、その品質を保証してきた。雨畑の住人の雨畑硯にかける誇りと想いは「雨畑真石」という四文字となり、硯の裏に深く刻まれているのである。
このような「雨畑真石」の価値の保護と存続を巡る活動は、今なお「硯匠庵」という町立の施設を中心に受け継がれている。
今回の特集では、「雨畑真石」の質を探究し、本来硯がもつ性質の奥深さと、後世までこの資産を繋げたい、という想いを地元雨畑の住人にかわり伝えたい。そして近ごろ私たちが忘れられがちな、筆で文字を書くということの素晴らしさを再認識していただければと思う。

 

はやかわのとうげみち6

新窪乗越(しんくぼのっこし)

長畑~新窪乗越~新田~三河内

西暦2000年の頃、早川町では標高2000mの行田山への登山道を整備した。その行田山から、県境の稜線を西に進むと、新窪乗越に出る。
初夏になるとシロヤシオ(ゴヨウツツジ)などが咲き、なかなか雰囲気の良い峠だ。だが、稜線の静岡側は、日本三大崩れにも数えられる「大谷崩れ」という崩壊地で、はるか下まで見えてしまうのが少々恐ろしくもある。
さて、「雨畑(あめはた)は”安倍端(あべはた)”が変化したもの」とも言われるほど、雨畑(硯島地区)と静岡とのつながりは強い。
そのつながりの舞台となっていたのが、この新窪乗越だった。
雨畑の人は、この峠を越えて静岡にお茶を買いに行き、静岡の人はシイタケを求めてやってきたという。雨畑で栽培されているお茶も、この峠を越えて入ってきたのだろう。また、雨畑と梅ヶ島の間には、婚姻関係もあったという。
『甲斐国志』によれば、長畑から新田までは1日かかったという。ある時は花嫁が、あるいはお茶やシイタケを背負った村人は、何を思い、どんな光景を眺めながらこの長い道のりを歩いたのだろうか。想像は尽きない。