早川デザインブック
「デザイン」という言葉は多義的で様々に解釈ができますが、今日では、かっこいい、あるいはかわいいプロダクトをデザイナーが生み出し、魅力的な広告を打つ、といった「デザイン」が一般的かもしれません。しかしながら本来、生活に必要なものを作ったり、メンテナンスをしたりといったことは、誰もが生きるために必要としてきたことでした。自分の手から離れたデザインを多く目にする今、生活に根ざしたデザインに目を向け直すと面白い発見があるかもしれません。
民俗学者・宮本常一は著書『民俗学への道』の中で、環境と生活の密接なつながりについて言及しています。それを踏まえて考えると、人と自然のせめぎ合いがすぐそこに見える暮らしの中には、自然と同化したり、調和したり、対峙したりといった様々な知恵や技術や工夫が潜んでいると考えられます。
急峻な山、豊富な水、多様な動植物―。 早川町には、厳しくも豊かな自然があり、そこでは暮らしのことは自分の力でなんでもこなす人々が生活しています。「身の回りのことは自分でできるのが良い」という価値観に支えられた早川町での暮らしの中には、経験に裏打ちされた様々な知恵や技術や工夫が潜んでおり、そこには生活に根ざしたデザインがあるはずです。生活に近いデザインは「人に近い」デザインでもあり、その「形」や「仕組み」には、独特の温かさが宿っています。もしかすると、私たちの暮らしにも応用可能なエッセンスが隠されているかもしれません。
さあ、早川町ならではの「形」や「仕組み」を見つける探検隊となった編集部と一緒に、デザイン散策に繰り出しましょう!
はやかわのとうげみち12
足馴峠 早川町湯島~足馴峠~出頂の茶屋~富士川町(旧・増穂町)小室
西山地区の下湯島と上湯島の間で東の方を見ると、山の斜面が比較的なだらかに、しかし結構遠くまで続いている。かつて、湯島村の人々が増穂や鰍沢まで行くために越えていった山(実際は、見えている稜線のもう1つ奥だが)である。
湯島の人々が使っていたのは足馴峠という峠で、大正11年7月に南アルプス登山に訪れた朝香宮鳩彦に命名される前は、大峠と呼ばれていた。標高1820mの足馴峠は、早川流域の峠の中でも最も標高が高く、そのために大峠と呼ばれてきたのだろう。
昭和33年に出版された『西山村総合調査報告書』には、峠道が利用されていた頃の聞き書きが載っている。それによると、足馴峠と出頂の茶屋には昭和のはじめまでお茶屋さんがあったそうだ。湯島の人々は木炭・キハダ(薬用植物)・繭・下駄材などを出して、鰍沢で菓子・塩・麦・油・魚・米などを買ったという。12貫目くらいというから、45 kgくらいの荷を背負ったことなる。
また、西山温泉への湯治客も、トロッコ軌道などが整備される前は足馴峠を越えてやってきた。明治時代に書かれた『甲斐の落葉』によると、強力は、背負子に5升樽をくくり付けて布団をかぶせ、その上に客を座らせて峠道を登ったという。著者の山中共古は、籠などより快適な乗り心地だと書いている。
人の背に負ぶさって、はるばる峠を越えてたどり着いた西山温泉は、まさに秘湯、別天地のように感じられたに違いない。