白根山脈、甲斐駒山脈の高い山々に囲まれたこの地域は、よその地域から長らく、『早川入り』という僻地性の高い呼び名で語られていた。この言葉は、自動車での行き来に慣れた現代の我々が好んで使うものでもある。
早川の谷から見れば、ほかの村へ出るには、山の峠道を越えて行かねばならない。その順序で考えていくと、峠道を必要としているのは、主に早川の谷あいの人々であったような気もするが、しかしこの峠道の管理は、山の尾根を挟んだ両側の村々の住民よっておこなわれていたようだ。大雨の後では、必ず道造りの人足が出されたという。改修工事の際にも、関係村長が集まった協議した。
あらためて『早川入り』という呼び名について考えてみる。早川の他には確かに山に囲まれ、ある意味、隔絶されているわけだが、それは平地で暮らす人々が、自ら山を越えるときの苦労を思い浮かべるからであって、山村の人々は、必要なときには自由に外の世界と行き来していた。実際にはかなり広範囲にわたる情報交換や交流、出稼ぎもおこなわれていたのは古文書からも見て取れる。このため「各集落は他地域との交流による情報の受給条件は同一のレベルにあった」と考えられている。そして、そんな呼び名をものともしない“心意気”も、この地域にはあったのかもしれない。
『ヨーイヤナー』という、上湯島で歌われていた盆の唄に、「金こそないが 金じゃ買われる ソリャ 心意気」という歌詞が出てくる。“心意気”は方言でもない一般用語だが、早川の人々の心にすっと馴染む言葉なのだろう。
峠道は生活道としての役割を完全に終えている。しかし生活道として機能していた時代にあったような、この地域で暮らす“心意気”を、もう一度地域づくりとして、現代に合った形で、きちんと表現していけないものだろうか。
◯早川町誌
◯西山村誌「総合調査報告編」
◯やまだらけNo.10
◯白水智、『知られざる日本 山村の語る歴史世界』