早川流域の村々を表す、「早川入り」という独特の言い回しがある。「入り」とは入り組んだ谷間の地域をさす言葉で、奥まった、辺鄙な様子を思い浮かべるかもしれない。
しかしこの「早川入り」の思いがけない姿を、古文書から一部紹介してみたい。先人たちの暮らしぶりが、古文書の独特の崩し字と難解な言い回しを紐解くことで、文字通り浮かび上がってくる。
例えば、早川入りの茂兵衛と秀八は、駿州駿東郡千福村(現在の静岡県裾野市千福)で炭焼をしたいと願い出ている。この炭は「御用」の炭というから、幕府か藩に納入するものである。早川の炭焼のノウハウが高い評価を受けていたことが窺える。
また、野州川俣山(現・栃木県栗山村)の伐採では、早川の人が日用頭(「ひようがしら」と読む。木材の搬出作業に携わった人のリーダー)であったようだ。
こういったことからは、当時の早川の人々の腕の良さもさることながら、行動範囲が意外と広かったのだがわかる。決して早川入りの中だけでひっそりしていたわけではないのだ。
百姓の与惣治が、農閑期にふるいの張り替えの出稼ぎに出たという記録もある。行った先は相州・武州(現・神奈川県あたり)。需要が大きかったのか、与惣治の腕が良かったのか・・・、ふるいの張り替えに、こんな所まで足を伸ばしているとは、驚きである。
近世の早川入りからは、誇るべき名産品がいくつも送り出されていることも分かる。
まずは材木。「甲斐国志」という書物には、早川入りの木材の品質の良さは他の山の及ばない所で、中でも雨畑産が多かった、と書かれている。そういった材木を扱う商売の人が何人かいて、江戸の材木商や、伐採する山の持ち主などと交渉しながら早川産の材木を売っていた。
ほかにも雨畑の硯石、薬袋の煙草、コウゾ・ミツマタ(和紙の原料)や金といった特産品もあげられる。そして早川入りの人々は、それらの生産に関わっていた。近世では『石高』が注目されがちだが、米が取れないからといって決して貧乏一辺倒ではなかった。
もちろん、楽な暮らしではなかっただろう。しかし早川の山は、全国に名を轟かせる品を生み出す、まさに宝の山だったことも、また一方で真実なのだ。