自然と共生する術を知る 守り続けてきた橋 待望の永久橋ができるまで


集落の人々が中心になり幾多の災害を乗り越えてきた見返橋

湯島の湯と西山温泉の間に位置する見返橋の周辺は、過去に何度も渓谷美を評価されている。橋の名前の由来も景色の素晴らしさ以外にも(急峻な谷あいのため振り返って)安否確認をしたためといった説など様々である。

そんな見返橋だが、台風10号(昭和34年の伊勢湾台風をはるかに凌ぐ被害であったともいわれる)で流出したばかりでなく、この温泉集落で、住民と宿泊客の約300名が孤立状態になった。けれども、死者や病人、怪我人は一人も出なかったそうだ。なぜなら、集落の人々が危険箇所や危険水位をよく知っていたり、日常各家庭で災害時に備えて考え、行動したりしたからであるという。

また、当時の区長 天野さんは、前職での災害時の対応経験があり、すぐに、専門家(通信・医者・看護士を集め役割分担をした。また、食料・通電・安全確保を優先項目として位置付け、宿泊客がパニックにならないために、できるだけ客を外出させないこと、食糧の買い込みを禁止したこと、平等配分することを説明、宿泊日延長に伴う宿泊料は取らないことを説明した。その結果、湯治客自ら何か手伝うことは何かとの多くの人達からの申し出があった。さらに、奈良田や上湯島、南巨摩郡県職員などから食料や物資が送られた。


早川には、こういった瞬時で的確な対応、そして団結力が備わっているために、こうした数々の災害を乗り越えてこられたのだろう。見返橋はその後永久橋として昭和59年に竣工し、今に至る。

 

 

 

見返橋全景

初代竣工の記念碑も現存する弁天橋

千須和と小縄を結ぶ弁天橋も永久橋になるまでに何回も流された。
初代の弁天橋は昭和14年に竣工し、幅は二尺位の吊り橋であったという。千須和の人々が小縄へ出るための唯一の生活道路となった。その竣工記念碑には、五箇の村長を中心とし一致団結したことが刻まれている。この碑は、橋の真ん中に位置し、弁天様を祀る弁天島で見ることができる。それほどこの橋が架かるのに苦労し、悲願だったことが想像できる。

 

四代目は三代目を改良した引っ張り線が付けられたつり橋になった。橋が長く、大雪の日には橋が落ちてしまう恐れがあったため、千須和の人が昼間に2人、夜間に4人体制をとって維持してきた。千須和から小縄まで雪かきをして振り返ると、もう千須和側には雪が積もっていることが多々あったという。

現在、千須和の人々の移動は弁天橋を渡り、県道南アルプス公園線を自動車で通行するのが主流である。かつては、身延町切石から早川町の諸村へ往来する早川往還(やまだらけ36号裏表紙「はやかわのとうげみち」参照)が一番の道であった。そのため、急流早川を眺めた時、車やバスが往来する県道に渡ることは千須和の人々にとって大きな願いとなった。

今当たり前のものとして存在する弁天橋は、便利さだけでなく、それを維持管理してきた集落の歴史や思いが詰まった生活そのものの橋であることを強く感じた。

 

 

初代弁天橋の竣工記念碑

このように、山あいの早川町において、何度も橋は流失し、多くの人々がその度に大変な苦労や不便を強いられた。けれども、乗り越えられたのは、集落の人々が周辺環境に常日頃目を向け、対処してきたこと、そして、知恵を出し合い助け合って絆を深めてきたからなのであろう。

やまだらけ89号「待望の永久橋ができるまで」より>