この地域の山の暮らしを思うとき、焼畑が心に浮かぶ。
町内に「ナツヤケ」という集落がある。漢字では「夏秋」と書く。蕎麦など、夏焼いて作る焼畑の地に人が定着して、集落として変化したのだろうか。それには異説もあるが、近隣の「サシコシ(差越)」集落然り、「草理(そうり・そり)」のつく場所名も多くあり、早川町内には焼畑農耕との関連を想起させる地名が散見される。
焼畑は粗放農業と捉えられる向きもあるが、そう見下げたものではない。少なくとも自給自足を基礎とした時代の山の暮らしには、斜面地ばかりで水田が拓けなかったというよりは、むしろ焼畑の方が都合がよかった。焼畑農耕には畑の利用に周期性があり、毎年新たに山を拓いて焼く。常に1年目~3年目の山畑があり、その年数によって作付けする作物が違うから、これが天候不順による不作リスクの分散につながる。それを証明するように、焼畑農耕のおこなわれていた山の暮らしでは飢饉が発生することは滅多にない。
徳川幕府の救荒施策として設置された奈良田の郷倉には、実際には市川役所からの巡視の際のみ、各戸から粟を集めて積み込まれ、巡視が終わると各戸に戻したそうだ。徹底的な凶作に見舞われた驚怖を体験したことのないこの地の人々は、救荒施策の必要性を認識しないばかりか、ほとんど無関心であったようだ。
夏秋集落で暮らしていた節子さんは2009年頃、若者からのインタビューに答えて「多い時では81人の村の衆みんなを食わせてくれた夏秋を『尊い土地』だ」と言った。焼畑がおこなわれなくなって久しくとも、山の土地は相変わらず、山の神からの尊い授かりものだ。
〇西山村誌「総合調査報告編」
〇「やまだらけ」No.35
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